沙月は周囲を見渡すも、何も視線を感じない。「もしかして先ほどの女性社員たちじゃありませんか?」苦笑する沙月。「う~ん……そうでしょうか?」「はい、そうですよ。だって、あの人たちが言ってましたよ? 霧島さんは憧れの存在だから話しかけるのに勇気がいるって。そう噂されてますから」すると霧島は満面の笑みを浮かべて沙月を見つめた。「それでは天野さんは……」「え? 私がどうかしましたか?」「いえ、何でもありません。それで先ほどの話の続きですが、人間関係で悩んでいるようでしたら相談に乗りますよ。経験者なので、天野さんに良いアドバイスが出来ると思います」霧島は沙月の心の声を真剣に聞こうと身を少し乗り出した。「霧島さん……」霧島の温かい言葉に、沙月の感情があふれ、思わずうつむいた。「……天野さん? どうかしましたか?」心配になった霧島は、沙月の様子を伺うために顔を近づけた。――その瞬間。柱の陰から一人の人物がスマホを構え、録画ボタンを押した。画面に映った角度からは、まるで沙月と霧島が今にもキスしそうに見える構図になっている。実際には二人の間にまだ距離はあった。だがレンズ越しには、唇があと数センチで触れ合いそうに映りこんでいる。互いの顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。盗撮者は満足げに画面を拡大する。スマホに映し出された映像は現実以上に艶めかしく、危ういものだった――****――その頃。澪は自分専用の楽屋でスマホの画面を食い入るように見つめていた。そこには沙月と霧島が笑顔で話をしている様子が映し出されている。「ふふ……いいじゃない。これで二人が仲良くしている証拠を収めることが出来たわ」澪は満足そうに口持ちに笑みを浮かべる。指先で動画を巻き戻しながら、澪は何度もその場面を確認した。霧島と沙月が笑顔で話している姿は、澪にとって絶好のネタだった。「報道局の顧問弁護士と、あんなに親しげにするなんて。さすが、私の司を寝取っただけあるわね」スマホを閉じ、デスクの上に置かれたパーティーの出席者リストを見つめた。「天野……沙月」沙月は赤いマーカーペンを手にすると、沙月の名前を丸囲みした。「金曜日が楽しみね。あんたがどんな顔をするのか、今から楽しみだわ」澪は立ち上がり、鏡の前で自分の髪を整えた。そこには完璧な装いの自分がいた。「沙月……あ
――昼休みも終わりに近い頃。社員食堂の窓際席に沙月と霧島は向かい合わせに座り、コーヒーを飲んでいた。「どうです? 社員食堂とはいえ、ここのコーヒー、中々美味しいでしょう?」霧島が明るい笑顔で沙月に話しかける。「はい、美味しいですね。香りがすごく良いです」沙月は頷き、珈琲を一口飲んだ。「良かった。気に入っていただけたようで」穏やかな口調で語る霧島を見ていると、何故かふと自分が今抱え込んでいる悩みを打ち明けたくなってしまった。「霧島さん……この度は声をかけていただいて、嬉しかったです。実は私……職場では、あまり歓迎されていないようなのです。新人だから仕方ないのかもしれませんけど……」沙月は手にしていたコーヒーカップに視線を落とし、続けた。「金曜の夜に、大きな集まりがあって出席することになっているんですけど……正直、少し気が重くて。でも出席しないわけにはいかないし……」黙って沙月の話を聞く霧島。その姿勢が今の沙月にとって、すごく好感が持てた。そこでつい本音を口にしてしまった。「……私、昔からあまり弱音を吐くのは得意じゃないんです。でも今日は少しだけ……誰かに話したくなってしまいました」すると霧島は一瞬目を見開き……口元に笑みを浮かべた。「その気持ち、僕も良く分かりますよ」「え?」沙月が顔を上げると、霧島は穏やかな笑顔のまま両手を組んだ。「職場での人間関係って、誰でも少し悩むものだと思いますよ。僕自身も入社したばかりの頃は同じでしたから。コミュニケーションがうまく取れない相手だと、もしかして自分は嫌われているんじゃないかって考えてしまいますよね」「霧島さんがですか? その話、本当ですか?」 彼の話は驚きで、沙月は信じられなかった。「ええ、本当ですよ。ですが、そんなに驚くことですか?」「だって、霧島さんは人当たりも良くて親切な方ですから。誰かに嫌われるなんて、そんな……。その証拠に女性社員たちからとても人気がありますよね?」すると霧島はおどけたように肩をすくめる。「そうでしょうか? 自分ではそんなふうに思っていませんでしたが……天野さんにそう言っていただけると光栄ですね。でも何か思い悩むことがあるなら僕でよければ、聞かせてください。無理に話す必要はありませんが、誰かに話すことで心が軽くなるなら、是非」沙月は心がふっと軽くなっ
「ねえ、昨日の霧島さんの件、知ってる?」「知ってる、知ってるよ! 新人のくせに、あんな人と並んで歩くなんてね。もう信じられないわ」「ちょっと図々しいと思わない? 多分あの人、空気読めないんじゃないかなぁ?」「しっ! 聞こえちゃうよ。ほら、前を歩いてるんだからさぁ」聞こえよがしの声に、沙月は足を止めることなく歩き続けた。(……気にしちゃだめ。何も聞こえないし、相手にもしちゃだめ。私は大丈夫)必死に言い聞かせながら食堂に入り、空いている席を見つけて座ろうとした瞬間。「あっ……!」誰かの足が、沙月の足元に伸びてきて引っかかる。バランスを崩し、倒れかけたその瞬間――「危ない!」背後から伸びた腕が、沙月の身体をしっかりと支える。沙月は危く転ぶところを免れた。(今……誰かが私を転ばそうとした……)茫然としていたその時。「大丈夫ですか?」声をかけられ、振り向くとそこには霧島朔也の姿があった。「……あ……は、はい。どうもありがとうございます」沙月は驚きと安堵の入り混じった表情で礼を述べた。まだ心臓の動機は止まらない。周囲の女性社員たちは霧島の登場に一瞬たじろぎ、沙月に足を引っかけた女性は慌てて取り繕い始めた。「えっ、霧島さん……! たまたまですよ、ね? 私が彼女にそんなことするはずないじゃありませんか! ね? 天野さん!」沙月はその言葉に、ふと違和感を覚える。(……もしかして私の名前、知ってたの?)今まで一度も名前で呼ばれたことがなかった彼女たちが、突然『天野さん』と呼ぶことに、沙月の中で不信感が募ってくる。だが……沙月は考えた。(ここで反論すれば私が不利な立場になるかもしれない……)「はい、私が勝手につまづいただけですから。助けていただき、ありがとうございます」沙月は笑顔で霧島に礼を述べると、女性社員たちの顔に困惑の表情が浮かぶ。霧島は一瞬、女性社員たちに視線を向けると低い声で言った。「僕には足を引っかけて彼女を転ばそうとしたように見えましたけど……それは僕の勘違いだったのかな?」その言葉に、女性社員たちは一斉に青ざめる。「そ、そうです! そんなことするはずないです!」その言葉を聞いた霧島は沙月に向き直り、穏やかな笑みを浮かべた。「そうですか? ならいいですけど。……そうだ。天野さん、これから僕はコーヒーを飲もうと
「そういえば、資料室の整理を手伝ってくれた男性ってどんな人だったの?」不意に真琴から声をかけられ、沙月は顔を上げた。「あぁ……その人は報道局の顧問弁護士で、霧島という人よ」するとカレーを食べる真琴の手が止まった。「霧島? もしかして霧島朔也のこと?」「えっ……知ってるの?」「うん、業界じゃちょっと有名だよ。報道対応に強くて、局のコンプライアンスも一手に引き受けてるって。私も一度、研修で名前聞いたことある。確か、大学時代からかなり優秀だったって噂もあったし」沙月は驚いたように目を見開いた。「しらなかった……そんな有名な人が、私に声をかけてくれるなんて」「それって、沙月のことが気がかりだったからじゃない? 噂によると、霧島さんは無駄なことは一切しないタイプだって聞いてるから」「そうなの? 資料室で偶然会って、手伝ってくれて……すごく優しかったけど」「それって、見てくれる人はちゃんと沙月のことを見てるってことでしょう? 沙月が真面目に仕事をすれば周りの見る目も変わってくるよ」「……そうかな」沙月は少しだけ笑った。「そうだよ。だから、金曜のパーティーもちゃんと行きな。逃げたら、あいつらの思うツボだよ」「……うん。ありがとう、真琴」その夜、沙月は少しだけ心が軽くなった気がした。****――翌日沙月が出勤すると、今日はAD高橋の姿があった。彼は沙月が席に着くとすぐにやってきた。二人で挨拶を交わすと、高橋は束になった書類を手渡してきた。「天野さん、昨日はこちらに顔を出せなくて申し訳ございませんでした。本日はこちらのデータの打ち込み作業をお願いします」「はい、分かりました」沙月は返事をすると、「それではよろしく」と言って高橋は忙しそうに去って行った。早速PCの蓋を開けると、沙月は黙々と仕事をこなした。今日も他の社員たちから声をかけられることも無く……。(嫌味なことを言われたり、嫌がらせされるくらいなら無視されている方がマシね)しかし、事件は昼休みに起こった――****昼休みのチャイムが鳴り、沙月はPCの蓋を閉じた。周囲の社員たちは談笑しながら食堂へ向かっていくが、誰も沙月に声をかける者はいない。沙月は私物を鞄にしまうと立ち上がった。(……こんなこと、気にしない。昨日、真琴も逃げたら負けだって言ってたし)そう自分に言
――18時過ぎ。マンションの玄関を開けると室内には明りが灯され、真琴の靴が揃えてあった。(真琴……もう帰ってたのね)「ただいま~」リビングへ行くとキッチンから真琴が笑顔で顔を覗かせた。「おかえり、沙月」「うん。……真琴は今日早かったのね」少し伏し目がちに沙月は返事をすると真琴は眉を顰めた。「ねぇ、もしかして……また何かあった?」「え? どうしてそんなこと聞くの?」ドキリとして沙月は顔を上げた。「だって何だか元気が無いように見えたから」「うん……別にそれほど大したことはなかったんだけど……」沙月はソファに座るとため息をついた。「その、大したことって言うのが聞きたい。教えてくれる?」向かい側に真琴は座ると、真剣な眼差しを沙月に向ける。「うん、実は……」沙月は今日、会社で起きた出来事を真琴に報告した――「え……? 何よ、その話。それってあんまりじゃない!? 完全な嫌がらせじゃない!」真琴の目が険しくなる。「真琴もやっぱりそう思う?」「当り前よ! 一体何なの? 私が文句を言いに行ってあげるよ! 弁護士の私が言えば、会社だって動くでしょうし」それにはさすがに沙月は慌てた。「ちょ、ちょっと待って! 子供じゃないんだから、そこまでしなくてもいいわよ。それにまだ入社したばかりだから波風立てたくないし」真琴にこれ以上心配かけさせないよう、笑顔を向ける沙月。「……そう、分かった。なら明日も沙月が仕事を頑張れるように今夜は私が特別にスタミナのつく料理を作ってあげる」真琴は袖まくりをすると立ち上がった。「え? 真琴が?」沙月は目を見開く。実は真琴は料理が苦手だったのだ。「実はねぇ、今日お得意様がお土産を持って訪ねてきたのよ。有名なホテルの……レトルトのビーフカレーなんだけど……」最後の方はしりすぼみになる。いつも自身たっぷりの真琴が珍しくしおらしくなり、沙月はクスリと笑った。「いいわね、私カレー大好きだもの。それじゃ、サラダでも作りましょう」「そうね! カレーだけじゃ寂しいもの!」こうして二人はキッチンに立つと、食事の用意を始めた―― ダイニングテーブルで沙月と真琴は向かい合ってカレーを食べていた。「すごい……さすが一流ホテルが監修しただけのことではあるわね」カレーを口にした沙月が驚いて目を見開く。「ね~?
明らかに周囲の者たちが沙月の存在を無視している。(増々居心地が悪くなったわ……)心の中でため息をつくと、沙月はノートPCの蓋を開けて校正の仕事を再開した。そしてその様子を遠くから見ていた女性社員。彼女は沙月に資料室の整理を命じた人物だった。彼女は席を立つとスマホを手に廊下へと消えていった。***** ここは社内に設けられた澪専用の楽屋。澪は紅茶のカップを手に通話をしていた。「何ですって? 霧島さんと……沙月が一緒に行動してる?」『はい、そうなんです。二人で仲良く報道部に戻ってきました。あれを見た時には驚きましたよ』「ふ~ん。そうだったの。入社して早々に霧島さんに近づくなんて……あの女らしいわね」その口元は冷たい笑みが浮かんでいる。『朝霧さん、これから先はどうしますか?』「このまま続けてちょうだい。もっともっと、あの女の居心地を悪くしてやるのよ。その都度報告もしなさいよ?」『はい、分かりました。それでは失礼します』ピッ通話が切れると澪はテーブルの上にカップを置くと膝を組んだ。「ふん……面白くないわね。沙月の奴……まだ司と離婚してないくせに、もう霧島さんに目を付けたなんて」澪の口元が歪む。「彼に報告してやろうかしら。沙月が他の男と親しげにしていたって。そしたらどんな反応をするかしらね」だが、次の瞬間澪は首を振った。「……ううん。今はまだやめておいたほうがいいわね。焦らず、じわじわと追い詰めていく方が楽しいわ。霧島さんと親しくしている証拠も押さえてからじゃないと」(沙月……あんたは絶対に幸せになれない。させてやるものですか)澪はスマホをタップした。画面には、沙月の社内行動を記録したメモが事細かに記載されている。「さあ、もっと面白くしてちょうだい。霧島さんも巻き込んであげる」澪は口元をわずかに上げ、目には入念に練られた計画の光が輝いていた。「天野司に二人の仲を目撃させるのよ。自分の幼なじみであり、妻でもある者が、自分の会社でこんなにも親しげにしている姿を」澪は鼻歌を歌いながら軽やかに指先でテーブルを軽く叩いた。その様は、まるで目に見えない演出を指揮しているかのようだった。「沙月と霧島の一挙一動を記録するのよ。どんな細かいことも見逃してはいけない。いずれ時が来て司がそれを目にしたとき、全てが意味を持つのよ。見ていなさ